もし、リンゴが落ちなかったら・・・

このように、デュアルというのは、一方で非常に深遠な面を有していると同時に、一方ではきわめて当り前な現象としてとらえられている面もある。当り前であるために、デュアルであることが見逃されやすいともいえる。おそらくリンゴがパイナップルのように地面になっていたら、万有引力はわからなかったかもしれない。リンゴがたまたま木から落ちたから、ニュートンのような天才が、これは何事だ、と考え始めたわけで。その落下現象の瞬間を見なければ、リンゴは手でもぎとって食べるものだと思っていたにちがいない。

将来、宇宙船の中で子供が生れ、その子供が長い宇宙旅行を終えて地球に着いたとき、リンゴが落ちるのを見たら、きっとびっくりするだろうと思う。無重力状態にあるところでは、リンゴはぷかぷか浮いているのが当り前だからである。ニュートンが偉大だったところは、日常性の中で宇宙船の住人と同じセンスでものを見ることができたということだ。つまり、みんなが「まだコップの中に水が三分の一も残っている」と見ていたときに、ニュートンは「もう三分の一しか残っていない」と見たわけである。

われわれが、日常性の中で「当り前」だと思っているということは、そこに埋没しているということであって、その埋没から抜け出さない限り、デュアルな考え方はできない。そこに「激動」とか「拡大」が起ったとき、亀裂が生じて、そこでハッと気がつくのである。われわれは、自分たちが重力のある空間に生存しているなどということは、今までほとんど疑ったこともなかったし、自覚もなかった。ところが、スペースシャトルが飛び、宇宙空間の情報がだんだん増えてくるにつれて、逆に重力の存在が際立つようになってきた。

つい先日までは、無重力の空間で何かをしようなどというのは、少なくとも例外的なこととして考えられていたが、最近では、宇宙に工場をつくって、そこで何か新しい研究開発をしようというのが、今や人類の最も中心的な課題になりつつある。これは。いわば天動説から地動説へ変るぐらいの大きな転換だといえる。だからこそ、われわれは改めてニュートンの発見の偉大さを感じるのである。

宇宙時代になると、地上には重力があり、宇宙空間は無重力であるという見方は当り前になる。ところが、宇宙空間へもいかず、おそらく重力圏にどっぷり浸ってそこから一度も出たこともなかったニュートンが、すでに今日のように重力の存在についてデュアルに見ることができたということは、やはり驚嘆すべきことである。われわれは、日常性の中にいて、とかく一面的にしか物事を見られない傾向があるけれども、やはり、デュアルに見る、あるいはデュアルに考える習慣をつけることが、ニュートンの示したように「本質」を洞察するためにはきわめて大切だと思う。

— posted by 本郷 at 01:22 am  

 

「コップの水」は多いか、少ないか

われわれは、ものを見るとき、たしかにある瞬間には一方の立場でしか見られない。たとえば、部分的には天動説の立場としてしか見られないのだが、しかし、全体として見ると、実は地動説だということに気がつくということがよくある。これも非常にデュアルである。

よく「コップの水」論というのがある。つまり、コップの中に水が三分の一あるとすると、「三分の一しか残っていない」といういい方と、「三分の一も残っている」といういい方がある。これは、たった一字のちがいだが、完全にひっくり返った見方になる。しかし、これが存在の本質だと思う。まったく相反しているわけだが、どちらの議論も正しい。だから、両方の議論それぞれに共感し、なおかつ両方は矛盾し、葛藤しているということを認識するプロセス・・・。

このプロセスがむしろノーマルなのである。その作業自身が、存在を確定するプロセスなのである。そういう作業をやって、初めて真の存在が確定できる。たとえば、ユークリッド幾何学を勉強すると、これは整然としていて文句はない。非ユークリッド幾何学をやっても、これも文句はない。しかし、これらはまったく異なる公理(仮定)で成り立っている。

このように、われわれの世界というのは、その両方があって、初めてそれぞれの部分を全体の中でよりよく位置づけることができるのであり、それによってのみ存在を確立できるのである。したがって、その確立にいたるプロセスを経ていく作業が、実は存在に対する不可欠な手続きになる。逆にいえば、そのプロセスを経ていないものは、まだ存在が確定していないものなのである。近代科学でも、おそらくその出発点においては、アトミズムの前提として、それを全体として合成する部分を常に意識していたはずである。なぜなら、そういう前提がないと、アトミズムの分析自身の存在が希薄になってしまうからである。

実際、われわれの周囲を見渡してみても、日常的なレベルですでにわれわれが常識としているようなデュアルな実例がたくさんある。たとえば、高等動物の世界では「オス」と「メス」をベースにしてその社会ができている。それを反映して人間の社会では、男性と女性を区別する言語体系ができたり、あるいはいろいろなものに名前をつけるときに男性的な名前をつけたり、女性的な名前をつけたりする。神話の中にもそういう例が必ず出てくる。

こうした場合でも、やはり男性だけの社会の存在は考えられないし、女性だけの社会の存在ももちろん考えられない。生物の集団が永続的に生存するためには、当然、双方の存在が必要であるということを、常識のレベルでみんな知っている。そう信じて疑わないし、否定しようもないことである。

— posted by 本郷 at 01:15 am  

 

物事はすべて「裏打ち」されている

最近よく見聞きする言葉の一つに「本音と建前」という言葉がある。「本音」と「建前」は相反する概念ではあるけれども、たとえば「きみは本音をいいすぎるよ」とか、「建前ばかりいってもだめだよ」という言葉が示しているように、どちらか一方が前面に出ようとすると、これは否定されてしまう。

いみじくも、夏目漱石が「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい」と、有名な「草枕」の冒頭で書いているが、「本音」だけで通せるものではないし、「建前」、だけでもうまくいかない。ということは、「本音」と「建前」はお互いに補完し合っているわけで、「本音」は「建前」に裏打ちされて初めて「本音」になりうるのであり、「建前」も「本音」の裏打ちがあるからこそ「建前」として存在しうるのである。そういうバランスの上に人間関係は成り立っているのであって、したがって、このバランスが崩れた途端に人間関係はぎくしゃくし始める。

だから、人はそのバランスを崩すまいとして悩み、苦しみ、混乱し、葛藤するのである。しかし、そういうプロセス自身が実は最もしっかりしたもので、生産的であるというのが、「デュアルな考え方」なのである。逆説的だが、もしそういうプロセスをやめてしまったら、むしろバランスは崩れ、活力を失い、世の中はますます住みにくくなるだろう。人生をあまり悩まない人間も問題だが、逆に、いつまでも一つの物事にこだわり続け、悩み続けて自殺してしまうなんていうのも、これは非生産的で、きわめてデュアルではない。

激動の時代というのは、物事が激しく変化し、まさに「動」そのものだが、一方で、まったく変っていないもの、つまり 「動」に対して「静」なるものの存在をわれわれは常に感じる。これは「不易と流行」の意味に通じるかもしれないが、日本の場合は、そのあたりのバランス感覚が実に見事で、明治維新にしろ、第二次世界大戦後にしろ、結果としてそれをやっている。しかし、インカ帝国やアステカ文明のように、それがうまくいかなかったために消滅した文明もある。

さて、この「動」と「静」について少し考えてみたい。「動」と「静」を極限的に追求していくと、「動く」という概念の中には、 「動かない」すなわち「静」という概念が完全に裏打ちされている。つまり動くものを測定しようとすると、静止している物差しがなければ測ることができない。これは、ある意味ではまったく論理矛盾である。厳密には、本当に静止しているのかどうかはちょっとわからないのである。ある乗物が止って乗客が降りるというようなとき、本当にその乗物は止っているのか、あるいはブランコのゆれがだんだん小さくなっていって、最後はどこで止っているのか、これもわからない。

その論理でいくと、「動」だけの世界ではごく小さな動きはほとんど「静」に近いということになる。場合によっては、実用上、それを「静」とみなして使っているのかもしれない。したがって「無限小」の動きなどは、「動」とも見えるし、「静」とも見えるわけで、どちらともいえないところがある。

日常、われわれは、まるで自明なことのように「運動」とか「静止」とかといっているが、つきつめていくと、「動」と「静」の境目みたいなところがあるのである。具体的に測定しようというときには、きわめてデリケートな部分があるわけで、測定器が鈍感であれば徴小に動いている建物でも「静止」しているといえるだろうし、敏感な測定器であれば、やっぱり動いているということになる。しかし、その計器の限界を超えたところでは、またわからなくなる。

そうなると、これは際限がないわけで、世の中はすべて動いているということにもなるし、それでは「動く」という概念が規定できないではないかということになるが、要するに、これは「はっきりしたゼロがない」という考え方である。だから、根源的にはデュアルであり、ある意味では不確定なわけである。そういう考え方からすれば、「不確定性原理」というような理論が出てくるのはむしろ当然であって、それがなかったこと自体がロジックとしてはおかしかったのだといえる。

このように、日常、自明のようにいわれていることでも、一方だけを考えれば全部のことがわかるということでは決してないわけで、必ずその中にもう一方が完全に「裏打ち」として存在しているのである。そこで、Aか非Aかを無限に、本当かな、本当かなとつきつめていくプロセスがどうしても常に必要だし、そのプロセス自体が最も信頼できるものになるわけである。

デカルトの有名な言葉に、「我思う、ゆえに我あり」(cogito, ergo sum)というのがあるが、少なくともそういうプロセスは確実に存在する。また、それ自身がデュアルな性格を有しているといえる。デュアル思考という場合、考えていること自身が重要なのである。デュアルな存在を静的に議論するのではなくて、むしろ常に思考しながらそれをつきつめていくというパターンが不変の存在であって、とくに激動の時代にあって、考察の対象や内容はどんどん変っていくけれども、そういう思考のパターンだけはきわめて安定しているのである。

— posted by 本郷 at 12:58 am  

 

戦略的思考法としてのデュアル思考

今、日本が直面している「国際化」の問題も、同じような理解をすべきではなかろうか。かつての日本は、一つの伝統的文化をもった小さなコスモスと考えられる。ところが今、自由世界のGNPの11%を占めるまでに拡大したことによって、3%国家時代にはほとんど経験しなかったような、抜き差しならない構造上の問題にぶつかっている。従来であれば、異国趣味、舶来、ハイカラさん、といった程度で適当にお茶を濁すこともできたけれども、今やそんなことではとても納得してもらえないほど、力強い存在になっている。

そうなると、一方で「世界の平和のために日本文化を変えろ」というような声さえ出てくるのだが、他方、現実に日本文化は、すしにしても、しょうゆにしても食生活の分野においてさえ世界への拡大が起っており、ある意味で自らを強化し、それを確立するような現象が同時に起っているのである。

一般に、反論なき論証の多くはトートロジー(いいかえ)にすぎず、むしろ強力な反論があり、にもかかわらず、やはり無視できないという理論が最も有効であるといわれる。今の日本はまさにトートロジーを超えた段階になったのであり、強力な反論を受けながら、なおかつ無視できないという存在になっている。

だから、われわれにとっては、適切な摩擦は「理論を有効にする反論」に等しく、必ずしも摩擦をゼロにすること自体が理想ではない。外国からの日本に対するいろいろな注文、反論、指摘というのは、むしろわれわれが厳然と存在し、われわれが強力であるという一つの証明でもある。そういう視点を国策の基礎に据えて、国際化に対応する構造を構築することが、日本の現実的な課題ではないだろうか。

このように、日本が当面している国際化の問題にしろr遠からず顕在化してくるであろうバイオテクノロジーの問題にしろ、完結していた一つの体系が拡大するときというのは、必ずそこに、それ自体が内包している「逆説的な構造」・・・つまりAがあれば必ず非Aがあるという構造がはっきり見えてくる。

これが、まさに「デュアル」な見方である。物事を深く、広く理解するためには、とくに今日のような激動する拡大の時代においてデュアルな考え方はきわめて重要であり、このデュアル思考があってこそ、われわれの作業は動的になり、かつ持続的な繁栄も可能になるという考え方が出発点である。

— posted by 本郷 at 12:47 am  

 

拡大する二つの宇宙

20世紀の後半になって、人類に飛躍的な「視野の拡大」をもたらしたものは、なんといっても、1950年代に起った「DNA分子構造の発見」と「コンピュータの実用化」である。この超弩級の科学技術的成果によって、人類は、これまで技術的に解析不可能とされてきた未知の部分・・・すなわちミクロコスモス(人体)とマクロ・スモス(大宇宙)の両方で、その視野を拡大し、新たな挑戦を試みるようになった。そして、初めて大宇宙への挑戦を試みた人たちは、すでにこんな言葉を発している。

「ロケットの発射を見たことがあるかね。空に向ってそびえ立っている巨大なロケットのそばにいる人間は、まるでハエみたいにちっぽけに見えるんだ。小さな閃光が走ると、轟音が空気を粉々に引き裂き、白い煙があたり一面に広がる。ロケットは上昇を始める。無限の彼方へ向ってね。そこで、思わずこんな不敬なことを口走ってしまうんだ。神よ、あなたのしっぽをつかまえましたぞ、ってね」

「天には神はいなかった。あたりを一所懸命ぐるぐる見まわしてみたが、やはり神は見当たらなかった」

たしかに、これは視野の拡大による新しい知見である。しかし、これらの知見が本当に定着するためには、人類はなお、長期にわたって挑戦を繰り返さなければならないだろうし、混沌と葛藤のプロセスを経なければならないだろう。

一方のミクロコスモスの部分でも、新しい知見が生れつつある。最近の状況を少し説明すると、生物が細胞内に共通して所有しているDNAが、その分子構造の中に遺伝情報をもち、それを親から子へ伝達していくというモデル化が完成したために、遺伝情報の複製のメカニズムが明らかになった。また、コンピュータ内部の情報の複製や記録の働きについても、それは本質的に生物の遺伝情報と同じではないかという理解が広まってきた。

さらにまた、人類の精神的文化が世代から世代に受け継がれていくことも、遺伝という生命現象とまったく同列に論じることができるようになった。つまり生物には遺伝子(ジーン)と同時に、もう一つ「ミーム」という遺伝外情報を伝達する因子があり、これが生物の集団的行動様式を情報として受け継いでいくと理解されるようになった。

しかもこの遺伝外情報の部分は、DNAと違って、生物学的な拘束から離れているので、コンピュータなどの機械を使うことによって、その蓄積量を飛躍的に向上させることが可能である。実際、今日のコンピュータや通信などの情報分野における技術革新は、かつての産業革命における熱エンジンと同じように、人類という「種」にとって決定的に重要な役割を果し始めている。

もう一つ、注目すべき点は、コンピュータのもつパワーが、単に「遺伝外情報」の領域にとどまらず、「遺伝子そのもの」の領域にまで及びつつあるということである。人間をも含めた生物の複雑な遺伝子の情報的内容の解明が、今やコンピュータをフルに応用した技術によって驚異的なスピードで可能になりつつあり、遺伝情報の解読や操作は完全にバイオテクノロジーの俎上にのっている。

遠からず人類はバイオテクノロジーの時代を迎えるにちがいない。そのときに、人間が形態学的に急に変化するとはもちろん考えられないが、しかし遺伝子が操作され始めれば、長期的にはその可能性がまったくないとはいえない。今まで遺伝子の領域は、技術的に人間の手が及ばないところであった。それだけに人為が加わらず、いわば「神の手にゆだねられた領域」として非常に安定していた部分だったわけであるが、そこが人間の選択によって操作可能ということになれば、少なくともわれわれの知識体系は、それこそ「種」が変るぐらいの大きな変革、拡大を経験するだろう。

こういう拡大の時代になると、コスモスに内在する最も原理的な構造を垣間見るチャンスにぶつかるものである。拡大が起ると、どこかに必ず亀裂が生じて、その亀裂から、今までの体系とはまったく矛盾するような、どうしようもなくネガティブなものの存在が見えてくる。おそらく、原理的にいえば、それは今までの体系と表裏になって存在してきたはずのものであるが、それまで亀裂が起らなかったために、それを垣間見るチャンスがなかったのである。逆にいえば、それまでは表の存在だけで事足りていたということである。

ところが、急拡大が起ると、裏の存在が見えてくる。そこで、初めのうちは裏の存在を否定しようとか、あるいは表の存在に疑問をもつとか、いろいろなことを考えて混乱し、不安になるけれども、逆に、裏の存在が見えたことによって、なるほど、今まで自分たちが安住していた表の存在というのはこういうものであったのかという、自らの存在に対する再確認、つまり基礎固めができる。

これはよく用いる比喩であるが、ユークリッド幾何学が一つの体系として完全になったのは、ユークリッド幾何学自身だけでそうなったのではなくて、非ユークリッド幾何学ができて両者の共存が確立したときに初めて、それぞれが完全になったのである。したがって、拡大・激動の時代には、そういうとらえ方が強く要請されるのではないだろうか。

— posted by 本郷 at 12:33 am