進歩はいつもセンセーショナルにやってくる

人類の歴史の中で、学問でも、技術でも、およそ新しい変化のエネルギーが胎動する「時」というのは、決ってセンセーショナルである。それだけに、旧来の秩序、或いはそれを支えている価値観から見れば、これは一種の「異物」であり、「いかがわしいもの」として映る。したがって、いろいろな反応が起り、これが同化するまでには混乱と葛藤の時期が続くのである。

その混乱や葛藤も、「モンパッサンのエスプリ」ぐらいでスマートに収拾できればよいが、少し歴史を遡ってみると、たとえばイタリアでは、地動説を主張したガリレオが宗教裁判にかけられて有罪判決を受けるとか、コペルニクスの著書が異端の書として禁じられるとか、また、フランスでは、パリの最高法院が、パリ大学の認めない学説を擁護したり、教えたりしたものは死刑に処すというような布告を出すとか、そこには政治上、宗教上の問題があったとはいえ、まさに暗い、命がけの葛藤が続いた時代もあったのである。

しかし、人類は、程度の差こそあれ、常にそういう混乱と葛藤のプロセス・・・実はこのプロセスこそ、極めて重要なことなのだが、このプロセスを経ることによって、知識や経験のストックを増やし、視野を拡大することができたのである。この視野の拡大があったからこそ、未知なる部分への挑戦を続けることができたということができる。

汝、神の意にさからうものよ、地に墜ちて屍を晒せ!

有史以来、広大なる空間に夢を馳せ、その夢の実現に挑んできた人類はご理い未知の世界から、そんな声をどれほど聞いたことだろうか。

人類がもし、その声に臆して、あらゆるリスクを避け、新しいコスモスに相対したときの混乱を絶望として捉えていたとしたら、R・Mパワーズのいうように、「レオナルド・ダ・ヴィンチが羊皮紙の上に描いたいくつかのアイデアが、わずか数世紀でコンコルドという現実にまで発展する」ことはなかっただろうし、また、あの「栄光の鳥人」と呼ばれ、「グライダーの父」といわれたオットー・リリエンタールの墜落死・・・。

1896年8月9日、新型の操縦装置を試験中に、15メートルの上空から墜落して脊柱を骨折。翌10日、彼は臨終の床で「犠牲のみが、ただ、歴史をきずく」といい残して、永眠したことも、まずなかったであろう。

アイデア出しのテクニック~発明の方法と広げ方~

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— posted by 本郷 at 12:24 am  

モーパッサンのエスプリ

「今」という「時」を語るためには、時の流れをさかのぼり歴史から始めなければならない。歴史の都パリのど真ん中に、あの高さ300mの「鉄の塔」エッフェル塔が出現したのは、19世紀も終りに近づいた1889年のことであった。

この年はフランス革命の100周年に当り、同年5月から6ヵ月間にわたって開かれたパリ万博は、それを記念した行事でもあっただけに、当時のフランス政府も、パリ万博を「センセーショナルで、前代未聞の画期的なものにしたい」という並々ならぬ意気込みであった。その壮大な構想の中から生れたのが、エッフェル塔だった。狙いどおり、それがパリ万博最大の呼び物になったことはいうまでもない。

当時、世界で最も高い建物はケルン大聖堂(159m)であったが、エッフェル塔は、高さにおいてこれを遥かに凌ぎ、まさに前代未聞の記録をつくった。それだけでも、人々の驚嘆と興奮を誘うに十分であった。また、純粋に建築という立場からいっても、エッフェル塔は「建築の未来の夢を紹介したものであると同時に、鉄鋼建築史の中で試された巨大構造の可能性を紹介したものである」という意味で、画期的であり、全世界の注目と称賛を博した。

しかし、あの誇り高きフランス国民の中には、エッフェル塔建設に激しい怒りを持つ人も少なくなかった。「優雅で洗練された伝統文化の旗手たるフランスが、単なる宣伝にすぎない巨大な鉄塔を建造し、歴史都市パリの景観を損なうのは、自殺行為に等しく、技術の濫用も甚だしい」として、その建設に反対する声が広がっていった。特に作家、詩人、作曲家、画家などの反感が強く、エッフェル塔の建設工事が始まると、ついにそれら芸術家のグループは、「文化の殿堂パリに鉄塔を建てるとはパリの名誉を汚すものだ」と主張して、連名の嘆願書を市役所に提出するという行動に出る。

倉田保雄氏の「エッフェル塔ものがたり」によると、作家ギ・ド・モーパッサンも、その嘆願書に署名した一人で、彼自身も建設中のエッフェル塔を「痩せた、のっぽのピラミッド」「巨大な醜い骸骨」「パリの面汚し」などと、徹底的にこきおろし、酷評の限りを尽していた。

ところが、そのモーパッサンが、数年後にはエッフェル塔のレストランでよく食事をするようになった。あれほど嫌っていたところに、なぜわざわざ足を運ぶのかと不思議がる周囲の声に対して、モーパッサンは平然として、「ここは私がパリで忌まわしい塔を見ないですむ唯一の場所だからさ」と答えたというのである。

また、モーパッサンと同様、怒れる芸術家グループの一人であった作曲家シャルル・グノーも、完成後しぱらくして、ギュスタブ・エッフェル(塔の設計者で、この人の名にちなんで塔の名前がついた)からの招待を快く受け、塔の四階にあるエッフェル氏のサロンでピアノに向い、即興で「雲の中のコンチェルト」を弾いたという。

少なくとも、一部の芸術家たちからは徹底的に嫌われ「無用の怪物」とまでいわれたエッフェル塔も、いざ「文化の殿堂」に収まってみると、時ともに、人びとの「異物拒絶反応」も静まり、詩に、絵画にシャンソンに、ごく自然に同化していった。そして、皮肉にも、それは「パリ面汚し」になるどころか、パリのシンボルとして存在することとなり、ほぼ一世紀を経ようとしている今日でも、その地位を他に譲っていない。

モーパッサンやグノーの変容ぶりは、一見、負け惜しみのようにも思えるが、もっと穿った見方をすれば、それはエッフェル塔との「共存」を確認するという意味でのエスプリであり、即興曲であったといえるかもしれない。

— posted by 本郷 at 11:41 pm