モーパッサンのエスプリ

「今」という「時」を語るためには時の流れを遡り歴史から始めなければならない。歴史の都パリのど真ん中に、あの高さ300mの「鉄の塔」エッフェル塔が出現したのは、19世紀も終りに近づいた1889年のことであった。この年はフランス革命の100周年に当り、同年5月から6ヵ月間に亘って開かれたパリ万博は、それを記念した行事でもあっただけに当時のフランス政府もパリ万博を「センセーショナルで前代未聞の画期的なものにしたい」という並々ならぬ意気込みであった。その壮大な構想の中から生れたのがエッフェル塔だった。狙い通りそれがパリ万博最大の呼び物になったことはいうまでもない。

当時世界で最も高い建物はケルン大聖堂(159m)であったが、エッフェル塔は高さにおいてこれを遥かに凌ぎ、正に前代未聞の記録を作った。それだけでも人々の驚嘆と興奮を誘うに十分であった。また純粋に建築という立場から言ってもエッフェル塔は「建築の未来の夢を紹介したものであると同時に鉄鋼建築史の中で試された巨大構造の可能性を紹介したものである」という意味で画期的であり全世界の注目と称賛を博した。

しかしあの誇り高きフランス国民の中にはエッフェル塔建設に激しい怒りを持つ人も少なくなかった。「優雅で洗練された伝統文化の旗手たるフランスが単なる宣伝に過ぎない巨大な鉄塔を建造し、歴史都市パリの景観を損なうのは自殺行為に等しく技術の濫用も甚だしい」としてその建設に反対する声が広がって行った。特に作家、詩人、作曲家、画家などの反感が強く、エッフェル塔の建設工事が始まるとついにそれら芸術家のグループは「文化の殿堂パリに鉄塔を建てるとはパリの名誉を汚すものだ」と主張して連名の嘆願書を市役所に提出するという行動に出る。

倉田保雄氏の「エッフェル塔ものがたり」によると作家ギ・ド・モーパッサンもその嘆願書に署名した一人で彼自身も建設中のエッフェル塔を「痩せたのっぽのピラミッド」「巨大な醜い骸骨」「パリの面汚し」などと徹底的にこき下ろし酷評の限りを尽していた。ところがそのモーパッサンが数年後にはエッフェル塔のレストランでよく食事をするようになった。あれほど嫌っていたところに何故わざわざ足を運ぶのかと不思議がる周囲の声に対してモーパッサンは平然として「ここは私がパリで忌まわしい塔を見ないですむ唯一の場所だからさ」と答えたというのである。

またモーパッサンと同様に怒れる芸術家グループの一人であった作曲家シャルル・グノーも完成後しぱらくしてギュスタブ・エッフェル(塔の設計者でこの人の名にちなんで塔の名前がついた)からの招待を快く受け、塔の四階にあるエッフェル氏のサロンでピアノに向い即興で「雲の中のコンチェルト」を弾いたという。

少なくとも一部の芸術家達からは徹底的に嫌われ「無用の怪物」とまでいわれたエッフェル塔もいざ「文化の殿堂」に収まってみると時と共に人びとの「異物拒絶反応」も静まり詩に絵画にシャンソンにごく自然に同化していった。そして皮肉にもそれは「パリ面汚し」になるどころかパリのシンボルとして存在することとなり、ほぼ一世紀を経ようとしている今日でもその地位を他に譲っていない。モーパッサンやグノーの変容ぶりは一見負け惜しみのようにも思えるが、もっと穿った見方をすればそれはエッフェル塔との「共存」を確認するという意味でのエスプリであり、即興曲であったといえるかもしれない。

— posted by 本郷 at 11:41 pm