物事はすべて「裏打ち」されている

最近よく見聞きする言葉の一つに「本音と建前」という言葉がある。「本音」と「建前」は相反する概念ではあるけれども、たとえば「きみは本音をいいすぎるよ」とか、「建前ばかりいってもだめだよ」という言葉が示しているように、どちらか一方が前面に出ようとすると、これは否定されてしまう。

いみじくも、夏目漱石が「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい」と、有名な「草枕」の冒頭で書いているが、「本音」だけで通せるものではないし、「建前」、だけでもうまくいかない。ということは、「本音」と「建前」はお互いに補完し合っているわけで、「本音」は「建前」に裏打ちされて初めて「本音」になりうるのであり、「建前」も「本音」の裏打ちがあるからこそ「建前」として存在しうるのである。そういうバランスの上に人間関係は成り立っているのであって、したがって、このバランスが崩れた途端に人間関係はぎくしゃくし始める。

だから、人はそのバランスを崩すまいとして悩み、苦しみ、混乱し、葛藤するのである。しかし、そういうプロセス自身が実は最もしっかりしたもので、生産的であるというのが、「デュアルな考え方」なのである。逆説的だが、もしそういうプロセスをやめてしまったら、むしろバランスは崩れ、活力を失い、世の中はますます住みにくくなるだろう。人生をあまり悩まない人間も問題だが、逆に、いつまでも一つの物事にこだわり続け、悩み続けて自殺してしまうなんていうのも、これは非生産的で、きわめてデュアルではない。

激動の時代というのは、物事が激しく変化し、まさに「動」そのものだが、一方で、まったく変っていないもの、つまり 「動」に対して「静」なるものの存在をわれわれは常に感じる。これは「不易と流行」の意味に通じるかもしれないが、日本の場合は、そのあたりのバランス感覚が実に見事で、明治維新にしろ、第二次世界大戦後にしろ、結果としてそれをやっている。しかし、インカ帝国やアステカ文明のように、それがうまくいかなかったために消滅した文明もある。

さて、この「動」と「静」について少し考えてみたい。「動」と「静」を極限的に追求していくと、「動く」という概念の中には、 「動かない」すなわち「静」という概念が完全に裏打ちされている。つまり動くものを測定しようとすると、静止している物差しがなければ測ることができない。これは、ある意味ではまったく論理矛盾である。厳密には、本当に静止しているのかどうかはちょっとわからないのである。ある乗物が止って乗客が降りるというようなとき、本当にその乗物は止っているのか、あるいはブランコのゆれがだんだん小さくなっていって、最後はどこで止っているのか、これもわからない。

その論理でいくと、「動」だけの世界ではごく小さな動きはほとんど「静」に近いということになる。場合によっては、実用上、それを「静」とみなして使っているのかもしれない。したがって「無限小」の動きなどは、「動」とも見えるし、「静」とも見えるわけで、どちらともいえないところがある。

日常、われわれは、まるで自明なことのように「運動」とか「静止」とかといっているが、つきつめていくと、「動」と「静」の境目みたいなところがあるのである。具体的に測定しようというときには、きわめてデリケートな部分があるわけで、測定器が鈍感であれば徴小に動いている建物でも「静止」しているといえるだろうし、敏感な測定器であれば、やっぱり動いているということになる。しかし、その計器の限界を超えたところでは、またわからなくなる。

そうなると、これは際限がないわけで、世の中はすべて動いているということにもなるし、それでは「動く」という概念が規定できないではないかということになるが、要するに、これは「はっきりしたゼロがない」という考え方である。だから、根源的にはデュアルであり、ある意味では不確定なわけである。そういう考え方からすれば、「不確定性原理」というような理論が出てくるのはむしろ当然であって、それがなかったこと自体がロジックとしてはおかしかったのだといえる。

このように、日常、自明のようにいわれていることでも、一方だけを考えれば全部のことがわかるということでは決してないわけで、必ずその中にもう一方が完全に「裏打ち」として存在しているのである。そこで、Aか非Aかを無限に、本当かな、本当かなとつきつめていくプロセスがどうしても常に必要だし、そのプロセス自体が最も信頼できるものになるわけである。

デカルトの有名な言葉に、「我思う、ゆえに我あり」(cogito, ergo sum)というのがあるが、少なくともそういうプロセスは確実に存在する。また、それ自身がデュアルな性格を有しているといえる。デュアル思考という場合、考えていること自身が重要なのである。デュアルな存在を静的に議論するのではなくて、むしろ常に思考しながらそれをつきつめていくというパターンが不変の存在であって、とくに激動の時代にあって、考察の対象や内容はどんどん変っていくけれども、そういう思考のパターンだけはきわめて安定しているのである。

— posted by 本郷 at 12:58 am