「コップの水」は多いか?少ないか?見る立場によって異なる

われわれは、ものを見るとき、たしかにある瞬間には一方の立場でしか見られない。たとえば、部分的には天動説の立場としてしか見られないのだが、しかし、全体として見ると、実は地動説だということに気がつくということがよくある。これも非常にデュアルである。

よく「コップの水」論というのがある。つまり、コップの中に水が三分の一あるとすると、「三分の一しか残っていない」といういい方と、「三分の一も残っている」といういい方がある。これは、たった一字のちがいだが、完全にひっくり返った見方になる。しかし、これが存在の本質だと思う。まったく相反しているわけだが、どちらの議論も正しい。だから、両方の議論それぞれに共感し、なおかつ両方は矛盾し、葛藤しているということを認識するプロセス・・・。

このプロセスがむしろノーマルなのである。その作業自身が、存在を確定するプロセスなのである。そういう作業をやって、初めて真の存在が確定できる。たとえば、ユークリッド幾何学を勉強すると、これは整然としていて文句はない。非ユークリッド幾何学をやっても、これも文句はない。しかし、これらはまったく異なる公理(仮定)で成り立っている。

このように、われわれの世界というのは、その両方があって、初めてそれぞれの部分を全体の中でよりよく位置づけることができるのであり、それによってのみ存在を確立できるのである。したがって、その確立にいたるプロセスを経ていく作業が、実は存在に対する不可欠な手続きになる。逆にいえば、そのプロセスを経ていないものは、まだ存在が確定していないものなのである。近代科学でも、おそらくその出発点においては、アトミズムの前提として、それを全体として合成する部分を常に意識していたはずである。なぜなら、そういう前提がないと、アトミズムの分析自身の存在が希薄になってしまうからである。

実際、われわれの周囲を見渡してみても、日常的なレベルですでにわれわれが常識としているようなデュアルな実例がたくさんある。たとえば、高等動物の世界では「オス」と「メス」をベースにしてその社会ができている。それを反映して人間の社会では、男性と女性を区別する言語体系ができたり、あるいはいろいろなものに名前をつけるときに男性的な名前をつけたり、女性的な名前をつけたりする。神話の中にもそういう例が必ず出てくる。

こうした場合でも、やはり男性だけの社会の存在は考えられないし、女性だけの社会の存在ももちろん考えられない。生物の集団が永続的に生存するためには、当然、双方の存在が必要であるということを、常識のレベルでみんな知っている。そう信じて疑わないし、否定しようもないことである。

— posted by 本郷 at 01:15 am